2011-2012 (あるいは『幕末太陽傳』について)

去年は大晦日にこんなことを書いていた。→2010-2011

今年は昨日観た映画の話。川島雄三の『幕末太陽傳』。1957年に公開された映画。デジタルリマスター版をテアトル新宿で観た。

舞台は幕末の品川宿遊郭を舞台にフランキー堺演じる居残り佐平次が飄々と幕末の時代を生きる。主人公が逞しいのはもちろんのこと、女郎さん二人(左幸子南田洋子)はエロ逞しいし、親父の借金で女郎にされそうになっちゃうおひさ(芦川いづみ)は可憐で逞しい。

 一方、同じ遊郭に潜伏する幕末の志士たち(石原裕次郎演じる高杉晋作ほか長州の皆様)は、学生運動的というか、どうにもフワフワしていて、お坊ちゃまの革命ごっこに興じているように見える。佐平次が『首が飛んでも動いてみせまさぁ』と高杉に啖呵を切るところはとても痛快。

2011年の年末にこの映画を観て終始印象に残ったのは、登場人物たちの無根拠な明るさだった。佐平次は肺病を患っていて終始悪い咳をしているし、女郎たち下働きたちも、過酷な労働と搾取で大変そうである。そして遊郭の経営者以外は全員金が無くて困ってるヤツらだらけ。おまけに政情不安で政府(江戸幕府)はいつ転覆するか分からない時代。それでもしかし、彼や彼女たちは、遊郭の廊下をありとあらゆる方向に走り回り、知恵を働かせ、ご飯を食べて、寝て、生きている。10年後に生きてるかどうかなんて分からないけどなーwwとか言いながら。

2011年。今年は特別な年だ。誰もがそう言う。僕もそう思う。だけど「今は激動の時代だ」とか「こんなに大変な時代に・・」という言葉を聞くたびに違和感を覚えるのも事実だ。「激動の時代」は、おそらく人類が生まれた時からずっと続いている。今だけ特別扱いするなんて傲慢過ぎる。幕末の庶民は、あと数年で国が変わってしまうことを感じていたかもしれないけど、それよりも日々の生活で精一杯だったはずだ。病気になってツラくて、金がなくてひもじくて、誰かに恋して悲しくて、そしてもちろん未来なんか見えなくて不安で。今年は特別。その通り。だけど「特別」じゃないこともずっと続いていた。それは生活するということ。

幕末太陽傳』の幻のラストシーンは、佐平次がスタジオの扉を開けて現代の北品川の街をちょんまげ姿で疾走する・・・という斬新過ぎるものだったそうだ。反対の声が多くて実現出来なかったらしいけど、それでも僕には、佐平次が「現在」を疾走する/逃亡する姿が見えるような気がした。1862年の品川と2011年の新宿が、オーバーラップする。昔生きていた人たちは今はもう死んで、今生きている人たちはまだ生きている。

杢兵衛「こら、こりゃ地震で死んだ人の墓だべヨ」「こりゃ子供の墓でねえかあ!」「嘘ばっかついてると地獄に落ちねばなんねえぞ」
佐平次「地獄も極楽もあるもんけえ。俺はまだまだ生きるんでえ」

幕末太陽傳』より