『トーキョードリフター』

ユーロスペース松江哲明×前野健太『トーキョードリフター』。

口の悪い言い方をすれば『ライブテープ』の二番煎じと言われても仕方のない、「街の中を前野健太が歌いながら歩く映画」の第二弾。どうしてもあの作品を思い出してしまうし、あの再現を期待してしまうけど、それは半分は叶えられて、半分は叶わない。だけどそれでいいじゃないかと思う、誠実な映画だった。

ライブテープは元日の吉祥寺が舞台だったが、この作品は2010年5月の節電で暗くなった東京の街(新宿、渋谷、下北沢など)が舞台。ワンカットではなく雨の中を前野健太はバイクで移動し、歌い、また移動する。音は丁寧に整えられ、増幅され(あるいは意図的に雑踏に紛れ込まされ)聴くものの耳に届けられるが、映像は暗い夜の街をぼんやりと映すばかりで、立ち止まって唄うシーンでは退屈さを感じることさえあった。(この点が常に街行く人々の姿を写していたライブテープとはかなり違う)

ああここは新宿のカレー屋がある細い通りから三越を見たところだな・・とか、渋谷駅へ至る道程とか、普段からこの近辺をうろうろしているのでよく分かるのだけど、そこで唄う前野健太は景色を変えてしまうというより、必死で景色の中に埋没しないように歌を歌っているように見える。(皮肉なのは前野健太が自分の歌ではなく、AKB48の『ヘビーローテーション』をバイクに乗りながら唄うシーンがとても印象的なことだ。それはAKBという記号が、シンガーソングライダーによって歌い直されることの違和感で成立している)

2011年。大震災。節電で暗い東京の街。だけど顔の見えない通行人たちは何を考えているか分からないし、二胡やサックスが合流したり、約束の地にバンドが待っていて、素晴らしい演奏が始まったりもしない。ただ、夜が明けて朝が来るだけだ。

『ライブテープ』にはお正月の吉祥寺という「特別な一日」の中で、世界を異化し、祝福する歌があった。『トーキョードリフター』には震災後の東京という「普通の一日」の中で、世界を異化しようしながらも暗闇の中に埋没しそうになる歌があった。だから『ライブテープ』のようなラストのカタルシスはない。けれども、薄曇りの朝を迎えて歌われる『あたらしい朝』はほんとうに素晴らしくて、僕は『天気予報』に負けないくらいいいと思ったのだ。答えもなく、祝福もなく、ただ「ある日の朝」がそこにある感じが。

大震災があって、原発の事故があって、東京の街が暗くなって、その街でそれまでと変わらず暮らしていたのが僕の2011年だった。そのことを、きっと忘れないだろうと思った。

「うしろからして 動物みたいに」
ああなんてきみは素晴らしいんだろう
長い夜もいつか遠い朝をむかえ
ああなんて空の青さよ
(中略)
百年後か 千年後か 一万年後かの
僕のこどものこどもの そのこどものこどもの
こどものこどものこどものこどものこどものこどもは
あたらしい朝日を見れるのかな
nanana・・・・・

前野健太『あたらしい朝』
「2011年3月20日のあたらしい朝」撮影・編集:松江哲明)