2011年俺の旅

土曜日。39歳の誕生日。吐瀉物と酔っぱらいたちが道端に転がっている土曜日の池袋。新文芸坐ロード・オブ・ザ・リングの3部作一挙上映を観た。われながら最高の誕生日の過ごし方だなと思った。

ロード・オブ・ザ・リング『旅の仲間』が公開されたのは2001年。日本では2002年の春。あの頃は俺もまだ20代だったということか。

2001年は9月11日に同時多発テロがあった年だ。それから10年たって、中東では革命があり、ノルウェーでテロがあったりロンドンで暴動があったりして、今年はもう色々あり過ぎるよ・・という年だ。

そしてもちろん、今年は3月11日に東日本大震災があって、福島原発の事故が今も続いている。後の自分がこの文章を読んだ時のためにメモしておくと、俺は普通に仕事して、普通に御飯を食べて、色々なことに心配になったりはしているけど、少なくとも表面的には震災前と大きく変わってしまったようなところはない。誕生日を超えてもそれは同じだ。

指輪物語は、世界を支配する力を持つ魔法の指輪を捨てに行く物語だ。これは優れたファンタジーとして子どもたちだけでなく、当時の若者たちにも「自らを破滅においやるに充分な核兵器を手にしてしまった人類が、その力を捨て去るべきだ・・」という物語として読まれたという(もちろん作者の意図から大きく離れて)。当然、今の時代に指輪物語を観る以上、そのことを考えずにはいられなかった。

人類が捨て去るべき悪とはなんだろう。圧倒的な悪意とはなんだろう?ノルウェーのテロ犯は単独で大いなる悪意を振りまいた。テクノロジーの進歩はかつてない規模でのテロを可能にする。これはこれで恐ろしい問題だと思う。地球を動かすテコがあれば、人間一人の力で地球を動かすことが出来る。テコが無い時代から、もしかしたらテコが入手出来る時代へ。

では福島の原発事故は?我々はどのような悪意でもって、この邪悪なシステムを強固に構築してしまったのだろう?(そしてなぜ未だにそのシステムを解体出来ないのだろう)多分そこには明確な邪悪なるものなどなかった、のだと思う。

指輪物語サウロンという「邪悪なるもの」も不明瞭な存在である。抽象的な、記号としての「悪」。バットマンにおけるジョーカーのような、善なるものへの相対的な存在としての悪でもなく、サウロンは最初から悪だから悪なのだ、という絶対悪。しかしながらその「絶対悪」に魅入られていく人間というのも指輪物語の中で繰り返し繰り返し描かれる。世界を統べるという機能自体が、そしてそのことに魅入られること自体が「悪」であるということは、つなわち全ての「統べる」こと(=システム)は、それ自体が力を持つことで邪悪なるものに自走的に変貌をとげるということを、力の指輪は象徴している。

「核」エネルギーの「平和」利用としての原子力発電所は、決して邪悪なる意志と意志が結託して作り上げた邪悪の権化ではなくて、テクノロジーとシステムが自走的にたどり着いてしまった滅びの山のように思える。

享楽的で、怠惰で、パイプ草とビールを愛し、くるくる巻き毛のホビットたち(すなわち子供たち)だけがそのようなシステムを、魅了されることなく破壊することが出来る。「大人(=つまり現存するシステムの維持者)」である旅の仲間達(アラゴルンや魔法使いやエルフ、ドワーフたち)は、それを手助けすることしか出来ないのである。

そんな風に現実の世界とファンタジーを無理矢理くっつけながら、びーびー涙を流しながら映画を観て一日を過ごした。(情けない話だけど)そして、家に帰って、とてもとてもくつろいだ気分になったりしたのだ。ホビット庄の穴蔵屋敷に帰ってきたような。いい誕生日だったけど、そんな日も福島原発は恐ろしい事態のままで、泊原発の営業運転再開が決まったりしていた。

このような形でしか、色々な世界の様子を解釈し感じ取ることが出来ないというのは、ちょっとした病気なのかもしれない。もっと直接的に感じ、行動することだって出来るはずだ。しかし物語という薄皮を介した上での解釈しか、悲しくも弱々しく育った我が身には出来ないのかもしれない。願わくば、もう少し剥き出しの世界にも対峙出来るようになりますように。そしてまた逃げ込める薄皮も残っていますように。(なんて都合のいいお願いなんだろう)

誕生日から二日を過ぎて。またも酒を飲みながら。