『ねじまき少女』

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)

パオロ・バチガルピの『ねじまき少女』上・下巻。ハヤカワ文庫SFの水色背表紙が誇らしげに輝く、やたらと面白い小説だった。

このタイミングで「石油が枯渇し、バイオテクノロジーによる食料調達が当たり前で、かつ遺伝子操作に端を発した疫病に蝕まれていて、世界の都市の多くは海面上昇で水没した世界」が舞台というのもちょっと出来すぎな気がするが、その世界(ずっと舞台はタイ)が、ペシミスティックでもゴシックでもクールでもなく、あくまで人間の欲望が世界を回している/エコロジーも完全に人間の欲望のための便宜・・という視線が貫かれているのが素晴らしい。

足踏みパソコン、遺伝子操作で生まれたアンドロイド(セックス用途もしくは戦争用途)、ゼンマイ銃、そして全てがカロリー→ジュールへと変換される世界の象徴がメゴドントという遺伝子操作で生まれた象のような巨大生物。そいつらが巨大なバイオゼンマイを巻く描写の汗臭さといったら、むせかえるような熱気を感じる。

エコロジーとは本来、このように描かれるべき思想なのかもしれない。我々は地球を壊しすぎです、と悲嘆にくれても多分人類は変わらない。セックスと暴力、権力への欲望は当たり前。我々が化石燃料を失ったら、象のカロリーをゼンマイに溜め込んだエネルギーで生きていくのだ。何が悪い?

遺伝子操作の天才科学者が、こう言う。

ボンズは鼻を鳴らす。「生態系は、人が初めて舟で海に出た時点でずたずたになってるさ、アフリカの広大なサバンナで初めて火を起こしたときに。わたしたちはその現象を加速しただけだ、きみのいう食物網はノスタルジー以外の何物でもない、自然か」うんざりした表情を作る。「”わたしたち”が自然だ。わたしたちの手を加えることが、生物学的な努力が自然だ。わたしたちはわたしたちだし、世界はわたしたちのものだ。わたしたちは世界にとっての神々だ」

圧倒的に正しいが、哀しい言葉。自然とは何か。人間はどこまでこの「火」を拡げるのか。誰も安楽椅子の上でそんな思索ふけったりせずに、物語の中の人間たちは走り回り、死に、のたうちまわって生きている。