『鉄西区』

ワン・ビン監督『鉄西区』。2003年作品。545分。オーディトリアム渋谷にて。
9時間の長丁場だが、第1部の途中で最初の休憩、第1部のエンディングと第2部の最初の1時間あたりで2回目の休憩、第2部の終了で3回目の休憩。そして第3部130分という上映だった。瀋陽にある鉄西区の2000年前後をビデオカメラ1つで撮影した驚異の作品。

第1部:工場 240分

いきなり延々と続く鉄道からの風景に、これはただごとではない映画だという覚悟を決める。暗い工場の中、ダラダラとしゃべる労働者たち、風呂に行くためにまっ裸になるオッサン、喧嘩する工員、熱くたぎる溶鉱炉。カメラがそこにあることをまったく意識していないかのような労働者たちの所作が続く。何も描かれていないようで、実は工場は衰退に向かっており、労働者たちも半ば諦めの気持ちを隠そうとしない。巨大な工場は既に廃墟のようにも見えるし、人々を飼う魔窟にも見える。オッサンたちは呑気にカードばっかりしてるように見える。

そういった状況の中にありながら、映画はすべての文脈から自由であるかのように、工場と人を写し続ける。

第2部:街 175分

工場ではなく、17歳くらいの年代の街のこどもたちが主役。狭いという表現すら甘いと思わされる極小スペースの住宅。ゴミだらけの道。タバコ吸って、賭け事やって、ひたすらダラダラしてるようにみえる働いていない大人たち。こどもたちは恋したりしてるようだが、その街にも区画整理による再開発の波がやってくる。(ペドロ・コスタヴァンダの部屋、コロッサル・ユースを思い出す)

俺たちには未来なんかない。工場の労働者になったってダメだし、そもそもその工場がもうダメじゃんか・・と彼らは笑顔でぐーたらしてる。ボロボロの街は強制的に壊されていく。主役はこどもたちじゃなくて街だったか。

第3部:鉄路 130分

世界の車窓から、ならぬ「鉄西区の車窓から」の130分。鉄道員はダラダラしてないかと思ったら、やっぱり彼らもなんかだらーっと仕事してる。鉄道から石炭やらなんやらくすねて生活してる老人とその息子が出てくるが、彼らはまるで鉄道という結界によって守られた街をさまよう幽鬼のようだ。

春夏秋冬、季節はめぐる。鉄道もめぐる。人も変わっていく。お正月の爆竹では何も吹き飛ばすことは出来ない。

3部作、だが時系列に1→3へ流れるのではなくて、同時期に撮影された映像を三種類にタグ付けして編集したものである。つまりそこにはちゃんと編集と恣意があるのだが、それでもまるで無編集で繋いだかのような無造作で文脈から自由な映像がそこにある。その一見無表情に見える映像が面白くてたまらなくなる。

誰もがその街に生きていて、同時に死につつある。スゴいものを観たのか、ただ自分の人生に気づいただけなのか。