3月25日の日記

3月11日の金曜日から2週間がたって、その間に何度も文章を書こうとしたんだけど、結局のところ言葉が余り出てこなくて書くことが出来なかった。今日も別に言葉がスラスラ出てくる訳じゃないんだけど、まあ今日は暇な夜だしな。ビールでも飲みながらちびちび書く。

11日。仕事してたら揺れが来た。窓の外から見える街灯が揺れてるのをすげーすげーと言いながらiPhoneで動画撮るくらいの余裕があったんだけど、あまりにも長く揺れが続くので徐々に顔色がなくなった。

その後はもうずっとTwitterやらUstreamやらに釘付けで、仕事関係のサーバやデータセンターの(自分に関係ある部分だけ)安全がわかって一安心する暇もなく、どうやら帰宅するのも大変らしいと気付く。Google徒歩検索では職場から2時間。意を決して同僚3人と歩き始めた。1時間ほど歩いたあたりで飯を食おうということになり、呑気にビールも2杯飲んでいたら、地下鉄が動き始めたというニュースが来た。五反田まで地下鉄で行き、歩いて帰宅。

部屋の中は思ってたより酷い状況ではなかった。一番心配していた本棚は倒壊しておらず、その上に載せたあったノートPCやらnovationのシンセ、ウクレレFC東京の古いMDPやらDVDやら・・が床に落ちていて、お掃除ロボットルンバがその中に埋まっていた。玄関の鏡が倒れて壁を傷つけていた。パキラの枝も折れていた。

しばらくして妻が帰ってきて、二人で呆然とテレビを眺めていた。津波の映像はものすごくて言葉を失うばかりだった。Twitterのタイムラインも物凄い勢いで流れていた。

それから2週間。世界のすべては変わってしまったようにも思えるし、変わらないものもある。被害者の数は増え続けて、原発のニュースはどんどん酷いことになってきている。余震はまだ続いてて、僕はすっかり地震酔いになってしまったようだ。

ライブにも映画にも行った。本も読んだ。酒を飲んだ。仕事をした。

この2週間、正直言ってかなり不安定な気分だったと思う。

今日は飲みにも映画にも行かずまっすぐ帰宅して、晩飯を作った。味噌汁作って、米を炊いて、豚肉とモヤシを炒めた。テレビでは岡崎と長友と内田のコマーシャル(公共広告機構)が何度も何度も流れていた。みんなが大丈夫、大丈夫。と言っている。

うん、やはりまだ言葉がスラスラ出てくる状態ではないようだ。また気が向いたら何か書こうと思う。