『ヘヴンズ ストーリー』

日曜日。ユーロスペース瀬々敬久監督『ヘヴンズ ストーリー』。

素晴らしかった。その余韻で月曜日は一日ボーっとしてしまったくらい。4時間38分が濃密すぎて、いろんなことを考えてしまって、結局うまく説明出来ない感じがもどかしい。

天才の作ったヒラメキ溢れる奇跡のような傑作でもなければ、観る側の解釈によって飛躍をとげるカルト映画でもなく、本当にまっとうに、普通に、誠実に、作り手の思いがそのままのった映画である。そのまま真っ直ぐに受け止めて、描かれた物語を自分の言葉に置き換えようとする経験。それが幸せなことだと感じた。

青山真治ユリイカ』、若松孝二実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を思い出した。(『愛のむきだし』との共通点は上映時間が長いことだけという気がする。)

精緻な構造と群集劇は幾分定形に則りすぎな感じもするが、それぞれのパートがものすごく丁寧に作られているので物語に引き寄せられる。それは演じる人たちの熱演や、決定的な瞬間を敢えて映さないことによる描写の積重ねが見る側の想像力を喚起するからでもある。物語を読むことの快楽が見るものを捉えて離さない。

小説として思い出したのは『罪と罰』ではなくて『枯木灘』『地の果て 至上の時』だった。以下、内容にかなり触れているので、映画をこれから観る方はご注意ください。

ヘヴンズ ストーリー』の構造(を拙い手つきで分析すると・・・)

復讐=自分感じた苦痛+殺人の合理 (等価交換の倫理で言うならば)

3つの類型について

類型(1)理由無き殺人者:ミツオ・・・『大菩薩峠』の机龍之介のような、無根拠の殺人者。合理によって殺人を犯す(3)の正反対にいる。

類型(2)普通の殺人者(リアクション型、(1)と(3)の中間):トモキ・・・ほとんどの人は彼と同じ場所にいる。ある日突然晒される不条理な悲劇に対して、泣き、怒る。時間と社会によって癒しを得る人と、悲劇を再生産する人がいるが、この映画の中では前者から後者へと推移する。

類型(3)理性の殺人者(合理・理性・倫理・秩序の過剰な信奉者):カイジマ・・・これは映画や漫画のようなフィクションの中に数多く存在する。つまりファンタジーバットマンなんかがそう。カイジマは自分が過去に犯した罪を金銭で贖おうとするし、自分が陥った不条理な悲劇を克服するために、復讐の実行者として神のような力を振るおうとする。

そして上記の3つの類型の後に、3人の子供が登場する。彼ら彼女らは迷いながら生きる。

サト・・・上記1、2、3からロールモデルを選ぼうとする。まずは3のタイプ。しかし自分には復讐を行使する相手があらかじめ失われているため、トモキにその衝動をアウトソーシングしているように見える。
ハルキ・・・3である父親に対して反抗的で懐疑的。1に近い無謀な生き方を選ぼうとしているように見える。
カナ・・・突如として1に変貌する。そこに明確なトリガーはなく、ただこの世の不条理のせいに思える。そして彼女は子供を産む。

怪物があらわれる、とはなんのことだろうか?これはとても判りやすい。怪物とはこの世界の愛の裏返しであり、怪物=他者への恐怖、が全くない世界とは、愛情も親密もない世界と同義である。この構造をこの世界は繰り返す。「まもる」という概念は「敵」の概念なしには成立しない。

映画『ヘヴンズ ストーリー』は9つのリズミカルな章立てによって、悲劇の円環構造とそのなかにある希望と幸福について語っている。こういった本質的な物語以外に我々を真に祝福し、癒してくれるものはない。

第九章の、怪物たちが現れるシーンではひたすらに涙が流れた。カタルシスとはこのことだろうかと思った。怪物があらわれて、我々は畏怖し、誰かを愛し、癒され、そしてまた畏怖する。そのなかで気が遠くなるほど多くの涙が流されるが、我々はその中で生きる以外に選択肢はないし、そのために物語があるのだ。