「あんにょん由美香」

月曜の夜。連休最終日。ポレポレ東中野「あんにょん由美香」。

この映画はどうやって人に勧めればいいのか分からない。僕のようなポレポレ東中野にしょっちゅう行ってしまうような人、松江監督のファン、ピンク映画のファン、豊田道倫のファン、そしてもちろん林由美香のファン・・・そういった人たちには、言葉を費やす必要はない。だけどそんな要素がない人たちと、どうやってこの映画の面白さを共有すればいいのだろう?と考えてしまった。いや、そもそもそういう人たちが見て面白いもんなのだろうか?(それはつまり、これがごく狭いジャンルの愛好家たちのために作られた、とてもよく出来た映画なのか、それとももっと開かれた、映画が人を繋げるということ、死んでしまった人を記憶すること、そして過去を祝福するということについての映画なのか、がよく分からないのだ)

だから、林由美香松江哲明もまったく知らない人が、この映画を見た感想はどんなだろうと思う。

それはそれとして自分の感想。

カンパニー松尾いまおかしんじ平野勝之・・・この3人の監督とともに由美香さんゆかりの地を巡るパート。これは明らかに謎の韓国産エロ映画「東京の人妻 純子」の足跡を追うパートと対になっている気がする。光と影というか、ポジとネガというか。もっとはっきり言えば、残るものと残らないもの、だ。

林由美香さんは亡くなってしまったが、膨大な数の作品が残っている。そしてのその作品の中でも、先に述べた3人の監督たちがとった作品は代表作として皆に記憶され、これからも残って行くだろう。そしておそらく、松江監督がこの映画に定着させたかったのは、「代表作」とならない、その他の膨大な作品とそれに関わった人たちの記憶についてだ。それらの作品に関わった人たちは(「東京の人妻 純子」の場合もそうだが)映画業界から離れてしまっていたり、ビデオは50円でワゴンセールされているか、もしくはすでに処分されてしまっていたりする。物理的にも、精神的にも、その作品はこの世界に痕跡すら残さずに消えていってしまうかもしれない。

この映画は、そういった多くの消え行く作品たちに、最大限の愛を示してみせた映画なのだと思う。有名監督が撮ったわけでもなく、ただ「作品を選ぶ」ということを全くしなかった稀代の映画女優林由美香出演作としてのみアーカイブに加えられる作品。当然のことながら、それらの作品にも多くの人の関わりがあり、想いがあり、生活があったということ。(そしておそらく、世の中には残るものよりも消え行くものの方が圧倒的に多いということ)

豊田道倫「新しい仕事」(素晴らしいインスト曲!)がかかるシーンになぜあんなにも感動したのかと言うと、やはりそこから離れてしまってもなお「映画」に向かう人たちの姿に感動したのだ。人は死んでも、その想いは残る、というのはかなり陳腐な表現だが、どんな作品にも想いはあるのだ。失敗作、駄作、愚作・・・どんなものにも、それに関わった人たちの想いがある。林由美香の膨大な作品たちが語りかけてくるのは、つまりはそういうことだ。

そして「あんにょん由美香」はそういう作品たちに引き寄せられてしまう松江監督自身、そしてまた監督に引き寄せられてしまう(私も含めた)いささか映画に入れ込み過ぎている人たちの自画像でもあるのだと思う。(だから、そんなものを普通の人たちは見て面白いのだろうか?と不安になったのである)

映画でも音楽でも小説でも、恋愛でも家族愛でもなんでもいい。多くの「後世に残らない」ものたちにも祝福を。それが、多くの残るもの/残らないもの の間で右往左往する我々に出来る最低限の礼儀であり、倫理である。この映画に映っていたのは、そういう種類の倫理を信じる人たちと、その人たち(=観客たち)が望む「奇跡」なんだと思う。