村上春樹「1Q84」

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

読了。素直に面白かった。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだときのような感覚になった。

とてもすっきりした構造だけど、物語はとても「熱い」。清潔でシンプル極まりない器なのに、その上に盛られた料理は熱々のギトギトのパワーに溢れている感じ。

まるで精密な設計図でもひいて作ったように、物語がそれぞれ何の意味を持つのか(あるいはあえて空っぽのような部分を作っているのか)が明確で、それぞれが美しく響いている。我々が物語が意味することを自由に想像し、解釈し、遊ばせることが出来る。しかも「熱い」物語であるのに、押し付けがましいところは微塵もない。

まるでポルノ映画かと思う程に、セックスが物語のあちこちに登場する。世界の様々な出来事がまるでかげろうのようにおぼろで、つかみどころがないような感じがする時にも、セックスだけが現実に戻る手段であるかのように。(これは昔の村上春樹作品からそうだったかもしれない。思い出せない。)

この物語の中で語られるのは、「空気さなぎ」という物語についてだ。P.K.ディックの「高い城の男」の中で、もう一つの世界を描いた小説がベストセラーになるように、「空気さなぎ」も世界を繋ぐ。

「ほうほう」というリトル・ピーブルのかけ声が素晴らしい。リトル・ピープルの顔をよく見てみれば、それは自分の顔かもしれない。声をよく聴いてみれば、それは自分の声かもしれない。ただしそのように見えるのも聴こえるのも、全ては「物語」があってこそである。物語が無ければ、全ては混沌であり、空気であり、形のある何かとはならない。そして、形のある何かを求めなければ、すなわち物語を希求しない限り、我々は何ものの顔も見ることは出来ない。誰の声も聴くことは出来ない。

物語とは、解答を導き出す行為ではない、と天吾は考える。それは問題を別の何かのかたちに置き換えるような行為だと。それは数式をすっきりと整理したり、違う角度から考え直したり、更にそこから新たな着想へ向かうために必要な過程である。決して何らかの儀式ではない。

1Q84」はそんな風に、私の頭を少し整理してくれた。それは世界をシンプルにしたり、逆に複雑にしたりするような「整理」ではない。宗教ではない。肉体の鍛錬でもない。それは今のところ物語を作る/読むことでしか発生しないうねりのようなもので、なんと名付けていいのかわからない。名付けようとすると、結局のところ同じだけの分量の小説を書くはめになるような、そんな感じ。

まさかね、こんなにも今、村上春樹の小説を読むことが自分に必要だとは思っていなかった。それがわかったことが最大の収穫かも。(そして、そう思っている人が大量にいて、この本が冗談みたいに売れているかもしれない)