「靖国 YASUKUNI」 この奇妙な世界で

先週の土曜日。シネ・アミューズ靖国 YASUKUNI
シネ・アミューズはいつも見にくくて閉口するのだけど、この日も沢山人が入ってたので見にくかった。朝の回だったせいもあるけど、おじさんおばさんが沢山来てたので、後ろの方に座った。やっぱり前の人の頭が邪魔だった。

ドキュメンタリー映画として「靖国」を撮るアプローチとして、この映画は一つの正解を導き出しているように思った。つまり、あそこに集まってくる人たち/大きな声で意見を叫ぶ人たち/反対する人たち/反対することに反対する人たち/日本や、中国や、首相や、その他多くの何かに文句をつけたくて仕方がない人たち・・・口を開けば多くの「意見」を話してくれる人たちにカメラを向け、彼らの言葉を引き出したとしても、なんら目新しい視点は生まれない。彼らの「対立」は、もはやタイムボカンシリーズの味方役チームと敵役チームのように、ロールプレイに徹した一つの芸とも言える域に達しているように見えるから。
(例えば『靖国 YASUKUNI』0点といった、余りにもひどい文章を平気で書く人にしてみれば、この程度の言葉はスラスラと一瞬で出てくるほどに、「靖国」はある一定の立場を人々に提供し続けている。そこには硬直化し、「立場」によって自動的に予測変換されて出てくる言葉しかないし、そんなものをわざわざ映画で見たいとは思わない。)

だからこの監督は、この映画に出てくる人たちに余り多くはしゃべらせない。しゃべらせるとしても、あくまで彼らが靖国というステージの上で、公式に発する言葉を表面的に撮影するだけだ。更に言うなら、そういう風に人が「意見」をしゃべるシーンはこの映画の中でも圧倒的につまらなくて、逆に軍服姿の集団の(滑稽な)参拝のシーンや、「中国帰れこの野郎!」と罵声を100回以上延々と続けるオジサンとか、星条旗と共にたたずむアメリカ人とか、靖国神社に自分の家族を勝手に祀るのをやめてくれ!と申し入れる台湾の女性の激した様子とか、警察に向かって「僕を逮捕しようというのですか!」と芝居がかって叫ぶ青年とか、そういうシーンは面白い。

そして監督が、唯一じっくりと話を聞くのは、刀匠のおじいさんだ。このおじいさんがまた、「政治的立場」のようなものから随分と距離のある、まさに職人といったタイプのおじいさんで、いろいろきかれてもひたすらニコニコしてるだけである。そして監督との噛み合ないトークとか、話が続かなくて気まずい感じとか、とにかくそういうシーンはたっぷりある。この映画は、「意見」のある人から話を聞かず、「意見」のない人にひたすら焦点を合わせようとする。

そして「靖国刀」を、当時の日本と戦争の時代の「象徴」として(あくまで仮にだろうけど)置くことで、「象徴」というものが果たす役割を浮き彫りにしていく。「象徴」自体に意味はない。意味を見いだすのは「象徴」を受け取る人たちである。だから「靖国」に過剰に(賛成や反対の)意味を見いだす人々というのは、結局のところ「象徴」に単純化されることをよしとするタイプの人々であり、それはもちろん「我々」や「一般大衆」や呼び名はどうでもいいけど普通の人々が最もラクな立ち位置でもある。自分自身で考えるのではなく、「立場」に応じた言葉を適当に吐き出せばいいのだから。

ラスト近くの、戦争の時代を写真や映像でひたすら流すシーンは、マイケル・ムーアばりの鮮やかで確信犯的な印象操作、プロパガンダ的切り貼りの映像にはなり得ず、むしろひたすらに不器用で誠実なメッセージである。「象徴」に勝手に意味をつけ、勝手に盛り上がり、勝手に賛同し、勝手に批判し、頭から湯気を出して言葉を口角泡を飛ばして激論するのは、その「象徴」のせいではなく、受け取り手の問題である。「靖国」に群がる賛美や批判や、その他諸々は、素朴な刀匠のおじいちゃんからしたら、何やら不思議な現象としか思えないだろう。

だからこの映画はおじいちゃんのゴツゴツの手と、殺風景な部屋を映し出す。ここで作られた刀に過剰な「意味」を宿らせてしまうのも、悲しい人間の宿命だと言ってしまえばそれまでだけど、そうやって、無理矢理に見いだされた意味や立場が、人々を無闇な対立や共闘へと駆り立てる。

スクリーンに映し出される空から眺める靖国神社の夜景に、無理矢理な「意味」など見いだしたくないが、人間はなんらかの象徴を求めているようなところがあって、それを弱さだと切って捨てる程に、自分は強くない。