車谷長吉『文士の魂・文士の生魑魅』

文士の魂・文士の生魑魅 (新潮文庫)

文士の魂・文士の生魑魅 (新潮文庫)

車谷長吉『文士の魂・文士の生魑魅』(新潮文庫)読了。
あまりにも膝を打つような名文と、昼寝でもしながらダラダラ読みたいような脱力感が入り交じった文章が素晴らしくて、いいわあコレ・・と溜息をつきながら読んでいた。

わたしは愛がどうの糸瓜がどうのと言いたがる女が嫌いである。嫌いという以上に、忌んでいる。だいたいこの手の女は、大学の佛文科あたりを出た、都会人風でありたいとあせっている女に多いが、併しかつては私も一再ならずこの手の女に魂を奪われたことがある。(愛の小説)

私は小説の醍醐味は短編小説にあると思うている。何気ない日常的な生活風景の中にひそむ「日常の中の以上」とも言うべきものが、小説の破局において、突如顔をのぞかせ、意外な、波乱に満ちた人の生死の、鮮烈な断片を切り取って見せる。そしてそれがいつ迄も私達の記憶に残る。そういう短編小説ならではの醍醐味は、長編小説では味わえないものである。(短編小説の魅力)

中島敦山月記』の冒頭を引用して>「比類のない名文である。恐らく近代日本文学中、随一の名文であろう。(伝奇小説)

「当節は功名心のために、あるいは金が欲しいがために、作家になりたがる手合いが多い。これは文学の堕落である。文学とは本来、この妻のように、人の苦痛が一卜時の慰めを求めて手を伸ばすものである」(病者の文学)

・・・もう赤線を引いておきたいような箇所が多すぎて困ってしまう。

どうしてそれほどまでにハマったのかというと、おそらくは車谷長吉さんの「小説家になろうと会社を辞めるも、数年で食い詰めて30歳で実家に戻り、その後は下足番などをしながら京阪神を渡り歩き、38歳で再び東京へ出てきて作家になった」という何度も何度も(おそらくは一生)繰り返される人生の物語に、自分のことのようでありながら、同時に徹底的に他人事であるような不思議な感触を覚えるからだと思う。

自分も今38歳であるが、若いときに「中上健次車谷長吉の時代が来るだろう」などと評価されたこともなければ、30代を無一文の下足番をして生きてきたわけでもない。車谷さんが嫁さんをもらったのは48歳だそうだが、俺はもっと早い。作家になろうなんて真剣に考えたこともない。だけども、心の奥底で「文士」の世界への憧れだけがあるのだろう。なんとも。

そして「私小説」の章。藤枝静男私小説論からの引用。

もう一つの私小説というのは、材料としては自分の生活を用いるが、それに一応の決着をつけ、気持ちの上でも区切りをつけたうえで、わかりいいように嘘を加えて組み立てて「こういう気持ちでもいいと思うが、どうだろうか」と人に同感を求めるために書くやり方である。つまり解決済みだから、他人のことを書いているようなものである。訴えとか告白とか云えば多少聞こえはいいが、もともとの気持ちから云えば弁解のようなもので、本心は女々しいものである。

そうだ。こういう小説がたまらないのは、「私」と「真実」と「嘘」の化かし合いが本当に愉しくてたまらないのである。