『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)新装版 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)新装版 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(下)新装版 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(下)新装版 (新潮文庫)

震災が起こって、最初に読んだ本はオスカー・ワオだった。それはもう心揺さぶられる傑作だったのだけど、もう少し心を落ち着けるために、昔読んだ本を読み返してみたいと思った。そこで選んだのが、新装版の文庫で出ていた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』上・下巻だった。1985年の小説。

大学の頃に買った新潮の立派なハードカバーは本棚の奥地に埋まっていて、取り出すのも骨だし、埃っぽくて嫌になるかもしれない。かわいい表紙で軽い2冊の文庫に収まったこの小説を、さっとカバンから取り出して電車の中で読むという行為は、なんだか実に今の気分にぴったりだった。

今読むと、とても構造が明確で、あらかじめ良く練られた設計図をもとに、定規を使ってまっすぐな線をひくように書かれた小説だと感じる。イメージは自由なのにとても抑制されていて、だらしないところがない。何を書くかは決まっていないのかもしれないけれど、どうやって書くのかは厳密なルールに従って書かれているな気がして、その「ルール」のようなものに、(歳をとって)とても惹かれている自分がいる。小説を貫く倫理のようなものが、「世界の終り」にも「ハードボイルド・ワンダーランド」にも貫かれていて、その中で転がる物語の中にいることで、なぜかとても落ち着くような気分に満たされた。

「余計な忠告かもしれんが、三十五を過ぎたらビールを飲む習慣はなくした方がいいぜ」とちびが言った。「ビールなんてものは学生か肉体労働者の飲むもんだ。腹も出るし、品性がない。ある程度の年になると、ワインとかブランディーとかが体に良いんだ。小便の出すぎるやつは体の代謝機能を損なう。よした方がいい。もっと高い酒を飲めよ。一本二万円くらいするワインを毎日飲んでいるとさ、体が洗われるような気がするもんだぜ」
私は肯いてビールを飲んだ。余計なお世話だ。

かつて、もっと若い頃、私は私自身以外の何ものかになれるかもしれないと考えていた。カサブランカにバーを開いてイングリット・バーグマンと知りあうことだってできるかもしれないと考えたことだってあった。あるいはもっと現実的にーそれが実際に現実的であるかどうかは別にしてー私自身の自我にふさわしい有益な人生を手に入れることができるかもしれないと考えたことだってあった。そしてそのために私は自己を変革するための訓練さえしたのだ。『緑色革命』だって読んだし、『イージー・ライダー』なんて三回も観た。しかしそれでも私は舵の曲ったボートみたいに必ず同じ場所に戻ってきてしまうのだ。それは私自身だ。私自身はどこにも行かない。私自身はそこにいて、いつも私が戻ってくるのを待っているのだ。
 人はそれを絶望と呼ばねばならないのだろうか?

これからも何度か、この小説を読み返すことがあるかもしれない。それくらい自分にとって大切な本だ。