『ハート・ロッカー』

3月23日。TOHOシネマズ六本木ヒルズで『ハートロッカー』。

観終わった後に、はっきりとした反感を覚えた。この映画において描かれている『爆弾テロ』は、台風や地震のような自然災害(つまり避けようもなく起こってしまう事態)としてのテロであり、それに立ち向う爆弾処理班たちは所謂兵士とは違うものとして描かれる。それはそれで正しいのもかもしれないが、イラクの事態を自然災害のように受け入れることが出来ないものにとっては、マッチポンプなヒロイズムであり、美化にしか思えないのである。(これは別に「アメリカ」「米軍」に対して言っているのではなく、世界という括りにおいても、だ)

リアリズムに徹するなら、もっと狂気と恐怖の日常を生きる米軍の中で、「仕事」をこなし続ける爆弾処理班を淡々と描けばよいのに、ドキュメンタリータッチのカメラが後半に映し始めるのは、子供の死(にだけ)過剰に反応し、情緒だけで行動し仲間を危険に陥れる主人公の姿。そこには作為だけがあり、「敵」を単純な「悪」にすり替えてしまう危険な詐術が潜んでいる。

そしてラストが本当に嫌いだ。

タワーリング・インフェルノ』では、スティーブ・マックイーン演じる消防隊長が、最後にポール・ニューマン演じる高層ビルの設計家にこう言う。

死者は200人を超えなかった。その内こういう高層ビルで1万人が死ぬだろう。俺はその死体を運び続けるだろう。ビルの建て方を建築家が聞きにくるまで。

決死の爆弾処理に使命感を感じる主人公が、ハードなロック(しかもちょっと中東風な音階のメロディーが噴飯もの)をBGMにして戦場に戻る『ハート・ロッカー』のラストと比べると、僕は断然このシニカルな消防隊長の言葉の方が好きだ。火事から人を救うことがカッコいいのではない、そもそも火事を起こさないことの方が大事だろうよ、と。

追記:今頃、ザ・シネマハスラーの宇田丸×町山対談聴いている。これを聴く限り、町山さんの解釈に「正しさ」があるように思える。(エンディング曲のミニストリーのくだりとか)でもあのラストに感じる「反感」はなんなのだろうと考えてしまう。