「ターミネーター4」Terminator Salvation
先週末の先行上映で見た感想をまだ書いていなかった。ターミネーター4。原題は"Terminator Salvation"。
ターミネーターシリーズには、もはや傑作とか駄作とかいう評価は相応しくない。おそらくは、ジョン・コナーがスカイネットの基地から、カイル・リースを過去へと送るシーンまで作られ続けるのだろう。その意味でこの"Terminator Salvation"も、通過点でしかない。そしてT2やサラ・コナー・クロニクルズと同様に、いかにその「間」に様々なエピソードを挟んでいくか、というのがT4の基本構造になっている。
決定的瞬間*1の間と間を繋ぐものとして架空の未来史を描くこと。タイムトラベルによる矛盾は物語のいたるところに現れるが、そんなことを気にしてはいけない。この世界を思う存分遊ぼうではないか、というのがターミネーターの続編のコンセプトである(と思う)。
T1について語り出したら止まらないので今日は省略。
T2は「核戦争の回避」つまりは歴史の改変によるパラドクスを盛大に残したまま、しかしながら商業映画としてのスケール感ではシリーズ中随一の存在感がある。だけど「審判の日が起こらなかったら、スカイネットの反乱が起きなければ、カイルは過去にやってこない。つまりジョンは生まれない」になってしまう。
T3はその矛盾を強引に解消してしまった。歴史は細かいところでは変わるけど、大枠では変わらない。つまり審判の日はちょっと遅れただけで、結局やってくる、という理論だ。これによってT3は「審判の日」という決定的瞬間を描くところまでで終わる。
そしてT4。核戦争後の地球が舞台。人類はスカイネットと戦いを続けている。どうやって人類が武器を調達しているのかはわからない。どうやって食料を生産しているかも分からない。そんなことは気にしてはいけない。そしてファーストでのカイルの回想シーンに極めて忠実に未来の戦争が描かれる。なんでスカイネットが人類を倒す為にわざわざ人型のロボットを作って殺そうとするのかわからないし、爆撃とかも無意味である。というかそもそも、知性に目覚めた機械が「人類を殺したい」という下卑た欲望を持つというのが、もうSF的には50年代風というか、小学生の発想である。(でもターミネーターはそれでいいのだ。)
そんなツッコミどころ満載のままT4の物語は進むが、結局のところはとても面白かった。核戦争後の世界にジョン・コナーがいて、カイル・リースがついに登場した。ただそれだけでもこの映画に意味はある。おまけにT800のスタートアップにも立ち会えるのだから、これ以上のサービスはないだろう。
僕が考えるこの作品のメッセージはただ一つ。「凡人が世界を救う」ということ。これはいかにも映画的な都合のいい嘘だが、それこそがこの映画が愛されている理由でもある。
Q:なぜ冴えないウェイトレスのサラ・コナーは未来からの殺人マシーンに命を狙われるのか?
A:彼女の息子のジョン・コナーは人類を救う救世主だから
Q:なぜジョン・コナーは人生を救う救世主になるのか?
A:彼は母親から、あなたは将来人類を救う救世主になると言って育てられたから
Q:なぜ母親は、ジョンが人類を救うことを知っているのか?
A:未来からきた戦士、カイル・リース(=ジョンの父親)にそのことを聞いたから。
そしてカイルが過去へやってきたのは、ジョン(=自分の息子)の命令なのだから、物語は最初から大きな円環を描いている。ジョンはあらかじめ決められた救世主なのだ。才能でも努力でもなく、「なぜなら、それは俺だから、そう決まっているから」という運命論的にジョンは救世主になる。映画で繰返される「未来は自分の手で変えられる」というフレーズは、結局のところかなりの詐欺的なキャッチフレーズである。サラとジョンはまったく運命を変えていない。ただ、そのあらかじめ決められたように見える運命の中で二人が懸命に生きるところが、単純な「未来は自分の手で変えられる」メッセージと違って、僕のようなひねた男にも届く映画的詐術なのである。
1と3は決定的瞬間を描いた。2と4は、その間にあるエピソード的な映画である。ということはつまりT5は最後に残った決定的瞬間を描くことになるはずである。そしておそらくは、ジョンは後景にひっこんで、カイルの物語になるはずである。
T4でもジョンは語り部*2だった。今回もクリスチャン・ベイルは見事に「目立たない主人公」(「ダークナイト」と同様に)をやり遂げた。T4はマーカスとブレアの物語である。ジョンはそんなヒーローにはなれず、ひたすら生き延びることが役割と信じて生き続けている。その姿がとっても健気で、多くの僕を含めた凡人たる人々は涙するのである。がんばれジョン・コナー。いつまでもお母さんの録音テープばっかり聴いてちゃダメだよ。