バックドロップ・クルディスタン

ポレポレ東中野バックドロップ・クルディスタン。そうそう、最近はここにピンク映画ばっかり見に来るから忘れそうになるけど、ちゃんとドキュメンタリーをやる貴重な映画館なのだ。

映画についてはほとんど何の前情報もないままに見たのだけど、いい意味で大いに裏切られた。クルド難民問題、難民を受け入れない国、日本。ただそれを映すだけでも困難で重い主題になりそうなのに、この映画はさらにその先までも射程に入れている。監督はどうしようもなく若造で、純粋で、だけどバカでいるつもりは毛頭なくて、まだ世界を信じていて、つまりはなんともロックという感じがする。

彼は日本で難民申請するクルド人家族を支援しながら、結局はその強制送還を見届け、「僕はいちばん近くにいた傍観者だった」と綴る。そこでブンガク的に言葉を弄んだり、美しい音楽や映像をかぶせれば、感動のドキュメンタリー/もしくは告発の物語の一丁あがりのような気がするのだけど、このカントクが選んだ道は、最もシンプルな方法だった。つまり、彼はクルドの家族を追って、トルコに行く。そしてトルコの人、クルドの人と話す。カメラを回す。わからないことを素直にきく。

歳をとると(いや若造のときから)何でも知ったかぶりで、あーそれねー、なんて言いたがり、分かった感じで世界を眺める態度をとる人がいる。というかおそらくは僕自身がそういう種類の人間なんだけど、だからこそ余計のこのドキュメンタリーは突き刺さる。知ってるふりをしないこと。わからないことに向き合うこと。そういう人が一番強い。

ザンキランのお父さんの怒りの声とか笑い顔とか酔いつぶれる様子とか、すべてが何かを伝えてくるような気がする。そして同時に、そこに映っている被写体ではなく、実はカメラを向けている人こそが、その瞬間主役に躍り出る。俺は何をしてる?と問う声は、そのまま観客席にも届く。我々は最後の空港のシーンの監督のような気分になる。その時に抱きしめてくれる手があること。そのことを証明出来ただけでも、この大いなる「わからないことだらけの旅」には意味がある。