「アフタースクール」人を騙したければ、本当のことを語ろう

内田けんじ監督、アフタースクールを見た。

前作「運命じゃない人」と同様、緻密に作られた脚本。「この映画はあなたを騙しますよー」と高らかに宣言しつつ、映画的に素直な人から、僕のようにひねくれまくった人間まで、きっちり楽しませてくれる。それはつまり「よくできている」ということだ。

この映画を見に行くオススメのシチュエーションは初デート。二人で初めて見る映画には、血飛沫や不道徳や欲求不満や世界の終わりよりも、気のきいた脚本とパズルがはまっていくような知的な興奮と、バカすぎない楽観主義がいい。この映画には、前者はあえて含まれず、後者がスマートに提示される。

まず主演の3人。大泉洋は彼のために書かれたような脚本で生き生きしている。表はバカそうで、でも裏がありそうなところ。演技下手に思わせてうまいし、堂々たる主役。堺雅人は一歩ひいた存在ながら、きっちりと謎の種まきから刈り取りまでこなし、堂々たる助演。

そして探偵役の佐々木蔵之介。この人が一番もったいないというか・・・公開中なのであんまり書きすぎるのもよくないが、前作の探偵役と同じく狂言回し的役どころなのだが、どうにも読後感にすっきりしないものが残るのだ。

この映画の後半は恐ろしく上品過ぎて拷問のようだった。
2008-05-29 - ゾンビ、カンフー、ロックンロール横断歩道を手を挙げて渡る「アフタースクール」

という意見もよくわかる。本当はもう少し彼なりの立場(というか彼視点での着地点)が用意されてしかるべきなのに、ここでバランスが崩れてしまっているのだ。「運命じゃない人」にあった、能天気な男/詐欺女/ヤクザ/失恋の女/探偵・・・の均衡のようなものを、この映画は(意識的に?)失っている。アウトサイダー映画であることを求めはしないが、「洗練」を極めるならこのバランスの欠如は痛い・・と思う。

脚本について。これはもう見た人がみんな同じことを言うと思うのだが、嘘を上手につく一番の方法は、嘘をつかないことだ、ということがよくわかる。この映画は嘘をつくことで観客を騙すのではなく、騙し絵のように錯覚を利用する。もしくは全体の中の一部を隠す/隠さないことで、見るものに錯覚を起こさせる。嘘をつかれるのではなく、我々が勝手に真実と違う物語を作り上げるのだ。最初から嘘をつかれていないので、騙される側に不快感はない。あるのは面白さのみ。かように「物語を語る」ということは自由な詐術に満ちているのかと思い知らされるのである。