「レスラー」について追記

なんか書き足りないのでもうちょっとメモ的に書いておく。

多分この映画が普通の感動作と違うのは、家族(現実)よりもプロレス(うそっぱちの世界)が大事、という見事なまでの価値観の転倒を肯定しているところだと思う。どんなに夢に敗れても、家族がいればいいじゃないか、というのが良くも悪くもアメリカ映画的着地点なのに、「レスラー」における家族はむしろ「願っても叶わないもの/失われてしまうもの」として描かれ、そこからの戻るべき場所としてプロレスのリング、そして仲間やファンたちがいる。

これはむしろ家族の解体→再生という流れがやはり無理だという結論(絶望的ではあるが)に達してしまい、サブカルチャー的な結束や、擬似的な家族の結成へと向かっているということの証左なのだろうか、という気もしてしまう。それはつまりランディにとっての「プロレス」があれば、みんななんとか生きていけるんじゃないか、という極めて冷静な分析であるようにも感じる。(会場にいるファンたちが、みな痩せっぽちだったり、どこか寂しげな顔の無い人たちの集合として描かれていることもそれと無関係ではないと思う。)

というかこの監督の映画の作り方は無茶苦茶に冷静で、全然感情に流されていない。ランディとパムが「80年代のロック最高!ニルヴァーナで始まる90年代は最低っ!」とのたまうシーンはまさに象徴的で、後のガンズでの大号泣の伏線にもなっているわけだが、おそらくはこの監督は80年代ハードロックの馬鹿馬鹿しさ/同時にある悲しさを、もう少し内省的でインテリぶった90年代オルタナティブロックより全然素晴らしいじゃん!と(全然インテリじゃない)主人公に言わせることで、より効果的にアピールしている。ロックくらいはいつまでも単純であって欲しかったよ・・・という嘆きと思えなくもない。

「俺にやめろと言えるのは」・・・・「俺だけだ」とくると思わせておいて、そう言わないところも、この脚本は本当によいなあと思ったところだ。そこには、彼の属するプロレスコミュニティ(=嘘の家族)への盲目的とも言える信頼がある。ファンはそう彼に言う権利があるのだ、まるで家族のように。まるで彼自身のように。

以上、とりとめのない感じになってしまったけど、「レスラー」についての追記。当然この構造はミッキー・ロークが家族ではなくて「映画」に救われている構造とも相似形になっている。