「シャーリーの好色人生と転落人生」

金曜日。池袋シネマ・ロサで「シャーリーの好色人生」「シャーリーの転落人生」2本同時上映。

不思議で無茶苦茶な(架空の)訛。どこだか分からない島。何をしてるのか分からない人たち。よくわからない選挙。現代の日本を舞台にした映画であることは明らかなのに、見事なまでにこの現実とはどこか切り離された夢のような世界が現れる。これは相当に巧妙で、うまく作られた映画なのだと感じた。上映終了後のトークショーでの監督の発言からも、かなり意識的にこの世界観が作られているのがわかったし、その試みのせいでたった1時間の映画×2本が、ピンク映画の1時間とはまた違った濃密さと迫力を持っていた。

17日は批評家の切通理作さんと僕と佐藤くんで、映画の登場人物はおおむね「痴漢」か「痴女」なのである、という仮説を実証してゆくことを試みました。まあ、痴漢とか痴女とまで言ってしまっては穏やかではありませんが、そういう欲望のスピード感をかつての撮影所時代の映画は持っていたわけで(2本立てを前提にジャンル映画が量産されていた時代)、撮影所の崩壊以降の現代映画は、そういった欲望のスピード感を喪失し、なにかと回りくどく欲望を取り巻く状況と風景をとらえることに拘泥しすぎなのではないかと。

男と女を配置するだけで、なんでもないところにドラマが生まれる。そこにトラウマだとか経済だとか時代だとか、なーんもなくても愛憎が生まれ、物語が動き出す。(そして言うまでもなく、平沢里菜子が美しい。)映画とはそもそもそういうものだったのに、今の映画は行動の説明をするだけで80%くらいを費やしてしまうのかもしれない。その時に観客は物語を「理解」するかもしれないが、あまり興奮したりはしない。

「好色」と「転落」の2本の構成は絶妙で、物語の前後関係がよくわからないまま、ぼんやりとした輪郭で(しかし細部は鮮明に)進んでいく。シャーリーはそこにいるのに、そこにいないような感じがして、我々はそんな不安を持ったまま、シャーリーと女たちの関係性を眺めるしかないのである。そしてラストには、なんとなく物語は繋がったように見えて、それでもまだやっぱり不安は続くのである。なんという手練た映画だろう。たった2時間で、「好色人生」と「転落人生」になんとなく触れたような気持ちになれる。